◆上川あや
続けて、パネルをごらんいただければと思います。
これは、瀬田四丁目の玉川神社の地下にかつて存在をしました巨大な地下ごうの位置図です。昭和十九年、米軍による首都攻略が相模湾から始まると想定した軍部が、多摩川を渡った玉川神社の丘に目をつけてつくり始めたのがこのごう――実線ですね――だとされています。
昭和六十二年にあるゼネコンが調査をした結果、東西方向に二百七十メートル、南北方向に十本、二百九十四メートル、延べ五百六十四メートルの巨大なごう網だということが確認をされました。幸い使われることなく戦争は終わりましたが、このごうが物語っているのは、軍部はこの世田谷も地上戦をする想定の場所だったということなんですね。地上戦のあった沖縄では、御存じのとおり四人に一人の県民が亡くなっております。次のパネルをごらんいただきたいと思います。次のパネルは、そのごう網の内部の写真です。
縦二メートル、横二メートルの、大人でも悠々歩ける大きさを持っています。中には、井戸やトイレ、排水設備、通風の工夫まであったとゼネコンの報告書にはありました。今から見れば、まさに戦争遺跡の一つということだと思うんですが、残念ながら昭和六十三年にこのごうは学術調査もなく埋め戻されてしまいました。総務部からいただきました資料によりますと、これ以外にも平成十八年駒繋公園内にあった防空ごうが、また、平成二十年富士中学校にあった防空ごうとおぼしき跡が、何ら学術的な調査もないまま埋め戻されています。
近年では、戦争遺跡が各地で注目を集めておりまして、文化財の指定も始まっております。ただ消えるに任せるだけではない対処が、ここ世田谷では求められるのではないでしょうか。今後、戦争遺跡が壊される際には最低限調査をし、記録する。また、できれば積極的に保全し、教育に生かすといった工夫が必要だと考えますけれども、いかがでしょうか。
◎伊佐 教育政策部長
委員お話しのいわゆる軍事遺跡につきましては、世田谷の歴史を知る上で重要なものであると認識しております。これらの遺跡などにより、世田谷区は、明治二十年代以降から終戦まで軍の施設が数多く存在し、住宅都市世田谷とは異なる一面を持っていた歴史を知ることができると考えております。このような軍事遺跡を文化財として保存していくには、奥沢城址や野毛大塚古墳のように史跡として指定したり、井伊直弼画像のように歴史資料として登録していくことが考えられます。そのために、区民の理解とともに学術的な価値を検証することも必要であると考えております。
これまでも区では、古民家や近代建築物のように時とともに失われていく文化財を優先して保存、活用に努めてまいりました。その意味で、軍事遺跡につきましても、先ほど申し上げましたような文化財としての位置づけについて検討し、記録による保存などの手法を含めた調査研究が必要と考えております。
◆上川あや
続きまして、おととしの予算質疑で使用したパネルを改めてごらんいただければと思います。
これは、環七と北沢川緑道が交差する地点にあるお寺、円乗院の境内に立つ、立ち枯れたコウヤマキの木ということで御紹介しました。昭和二十年五月の山の手空襲で一帯が焼かれた際立ち枯れたもので、戦争の痛ましさを忘れないようお寺が手をかけて残し、公開をし続けてきたものです。
おととし春の質疑では、区内に残る数少ない戦争遺跡の一つとして区でも活用できませんかということを伺いました。区長からも、伝えていくべきものだと思うと前向きな答弁をいただいたのですが、二年たって何ら変化がないんですね。せめて目の前の北沢川緑道を歩く方々に知っていただけるよう案内板をつけるなど工夫をしていただければと思うんですけれども、いかがでしょう。
◎伊佐 教育政策部長
委員お話しの枯れ木は、世田谷の特に北沢地域での空襲の様子を知る上で、大変貴重であるというふうに認識しております。現在の文化財保護の枠組みにおきましては、登録あるいは指定文化財として取り扱っていくことは、学術的な価値という観点からは非常に難しいものと考えます。
しかしながら、郷土の歴史を知る上で大切な資料と考えられますので、総合支所など関係各所管とも協議しながら、区民の方々に知っていただく工夫をしてまいりたいというふうに考えております。
◆上川あや
よろしくお願いします。