空襲被害者支援について伺います。

この間の他会派の議論を振り返りますと、非常に誤解も多いというのが実感です。

そこでまず、基本のキとして申し上げますが、今回の支援策の提案者は私であり、その発案者も私です。
昨年、今年と2年がかりで、国会に救済立法を求めてきた被害者団体、「全国空襲被害者連絡協議会」、略して空襲連にもご相談しつつ、準備を進めてきたもので、ポット出の提案でもありません。
ところが、他会派の皆さんは揃って私の存在を無視なさる一方で、さも区長の発案で、しかもトップダウンで軽々に検討が進められてきたかのように語られる。
そのご認識には基本的な部分から齟齬があります。

まず昨年8月、空襲連に問い合わせたところ、区長はそもそも国会議員だった当時、国会の空襲議連には入ってなかったと確認が取れています。
ところが先の代表質問では「区長がかつて社民党の国会議員だった時代に出来なかったことを、今度はその規模を小さくして、世田谷区長の権限で実現しようとしているのが今回の3万円です。」とまるで断定口調でおっしゃった。
そうした熱意があったなら、国会の議連にも当然入っていたはずですし。戦後80年まで待たずとも、70周年でも75周年でも、その検討は指示できたはずなんです。
6月の代表質問では「区長がこれまで、空襲などの戦争被害について熱心に語ってきた印象はなく、見舞金創設には唐突感が拭えません」ともありましたが、違和感があって当たり前。支援は私からの提案で、区長はあくまで受け手側。その発案者ではないのです。
また、「戦後八十年の節目だからとの単純な理由で、トップダウンで軽々に政治判断してよいとは思えません。」との非難もありましたが、こちらも私の実感とは異なります。
この間の区の方針決定は、私の提案を受けた担当部が、先行事例や国会議連の動きを丁寧に調べ、既にお年を召されている被害者のため、前向きに検討したいと区長にご相談を上げ、区長もそれを了解したもので、その流れはむしろボトムアップと呼ぶべきものでした。
そこで確認しますが、私がこの春、担当部にご相談する以前から、区が被害者支援策を温めてきた事実などあったでしょうか? また、私がご相談する以前から、区長がその検討を指示されていた事実も、またないのではないですか?

次に6月の代表質問には次のようなご発言もありました。
「国会での超党派議連について紹介がありましたが、国会でも議論百出で賛否が割れているという状況であります。」とのご指摘です。
しかし、この点も私はいささか異なる見解を持っています。
まず同月の朝日新聞は、全野党が救済法案に「賛成で一致」と報じています。
また、空襲連に直接、伺うと、既に立憲、国民、れいわ、共産党、社民、日本保守党の各党では法律案に賛成で党内了承が取れており、参政党と維新についても同じく賛成の方針と聞いているということです。
区の把握も凡そ、一致するでしょうか?

次に、本年3月の本会議では「被害者に対して労苦をしのぶことはあって良いと思うが、お金云々の話は筋違い」とするご意見が、9月22日の常任委員会報告でも、「お見舞いというのは1回ですよ。本当に継続するものではないと思います」とのご意見がありました。
しかし、これらのご意見に触れて、私には素朴な疑問がありました。
区は、広島・長崎の被爆者に対しても、毎年見舞金を出しています。
当区が被爆地でないにも関わらずです。

そこで問いますが、 区は今まで何回、見舞金を出していますか?
50回も出していて、なぜ、こちらには「お金云々は違う」とか「見舞は1回きり」との意見表明はないのでしょうか? それとも、これまで議会からそのような意見表明はあったのでしょうか?

次に、被爆者に対しては区の毎年の見舞金以外にも、国による医療費負担、無料の健康診断、健康管理手当等の生活支援が次々制度化されてきましたが、空襲被害者に対しては何もない。この支援の格差を区はどう見るでしょうか?

最後に、他会派からは、「給付対象者を見ると「区長が上記に準ずると認める障害の一部」もあり、どこまでを対象者とするか、曖昧」だとする指摘もありましたが「区長が認める場合」あるいは「者」等の表現は、限定列挙が馴染まない制度では、むしろ一般的にとられてきた表現だと考えるのですが、いかがでしょうか?
障害といってもその態様、困難は様々で、明確な線引きが馴染まない支援策の1つだと思います。

本件は4定の補正予算にもかかる案件でありますが、改めて議員各位のご理解とご賛同、さらにすでにお年を召されている空襲被害者へのご支援をお願いしまして、私の質疑を終わります。