★空襲体験者の「語り」の録画保存が行われました。
「空襲」といえば東京大空襲に注目が集まりがちで、世田谷を襲った「山手空襲」で多くの人命が失われたことは意外に知られていません。地域の歴史を次世代に残すべきという上川の提案で、山手空襲の体験者の語りを聞く機会が作られ、録画保存が行われました。
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◆上川あや
本日の私の質疑では、次代を担う子どもたちに平和の大切さをいかに伝えていくべきかという観点から質問をしてまいります。
私の初当選の年、平成15年秋の決算質疑で、区内でもその数が少なくなりつつあった被爆者の方々、また戦争体験者の方々の声を次の世代に残していく責任が我々にはあると。その手段の一つとして、体験者の実際の声を積極的に映像として残してはどうかということを伺いました。
当時の教育センター所長からは、委員がおっしゃいましたとおり、被爆者の体験を語る模様をビデオで映像に残す方法なども検討できるのではないかというご答弁をいただいたんですが、その後一切動きはありません。その一年半後、平成十七年、春の質疑で改めて状況を伺ったところ、当時の教育政策担当課長から、この件につきましては、今後、区長部局とも十分に相談してまいりたいとのご答弁がありました。しかし、これも全く進展はございませんでした。
平成二十一年、区の平和映画祭に、初めて戦時下の暮らしを聞く会という語り部の方のお話を伺う機会が挿入されると文教委員会で報告を受けましたので、ならば、ぜひその語りの様子を映像としてこれからの世代に残していくべきということを私から強く申し上げ、その結果、初めて語り部の映像化が実現はしたんですが、この映像化も私からあえてまた質疑をするまで、区の念頭には全くなかったと伺っています。なぜここまで区の対応は鈍いのかと私は思うんです。
区としては、戦争体験者の区民の記録が紙の資料に残れば十分で、区民の肉声は残す必要がないという考え方なんでしょうか、伺わせてください。
◎宮崎 政策経営部長
今委員からお話のとおり、平和映画祭のほうでは、二十一年度から語り部事業を実施いたしまして、ご示唆いただきまして、二十二年度からその様子を映像として保存をさせていただきました。
お話しいただいていますように、戦争体験者が減少している状況を踏まえますと、引き続き語り部事業を所管する教育委員会と連携しながら、さまざまな平和事業の取り組みをする中で、平和イベントのお話、インタビュー形式によるお話等、さまざまな手法の工夫によりまして、語り部の方々の声を後世に残すということが必要であると考えております。
◆上川あや
お隣の調布市や東京都内、特別区の葛飾区などでも、このところ地域に残る戦争体験者や被爆者の声を映像に残し生かしていく取り組みを強めています。葛飾区では、映像資料の作成に継続的に取り組むだけではなく、区の図書センターやすべての中学校にDVDを配置するなど、その活用も徹底されていると感じました。世田谷区もこうした取り組みを強めていくべきだと考えています。
七年前の質疑では、区内に残っている傷痍軍人会、傷ついた軍人の方々の会も会員数が三十五人に減り、その当時で年に四、五人が毎年亡くなっているというお話を紹介して、区もその検討を急いでいただきたいということを申し上げたんですが、その傷痍軍人会も既に四年前もう解散をしております。年に一回イベントの様子を悠長に撮っているといういとまはもうないと私は考えています。
この点、区長のご見解をお伺いしたいと思います。
◎保坂 区長
おっしゃるように、戦争体験者の方、また、広島、長崎で被爆をされた方、大変高齢化が進んでおります。沖縄の平和資料館に行って、何人かの方に聞いたことがあるんですが、あそこには大変過酷な民間人を巻き込んだ戦闘がありまして、その戦争体験を全部テープに吹き込んで、それをヘッドホンで来館者の方がずっと聞く、それらを子どもたちの平和教育に使っているという姿を見ました。
映像でというお話で、しかもそれを一年に一回ずつやっていても、もうやがて間に合わなくなるんじゃないかというのはおっしゃるとおりだと思います。さまざまな、軍人として戦地に赴いた方、特攻隊員だった方、あるいは東京大空襲、そういった経験がある方、世田谷でもそういった空襲の中で亡くなった人たちもいると聞いておりますので、映像というのを、余りどこかのプロダクションを使って、外注してと考えないで、職員がちゃんとビデオカメラで、三脚さえあれば撮れますので、そういうことを残していきたいというふうに指示をしたいと思います。
◆上川あや
同じ思いを共有していただいているようで、意を強くしました。よろしくお願いします。
◆上川あや
続いて、区内に残っている歴史遺産の活用について伺いたいと思います。
まずは、パネルをご用意いたしましたので、ごらんいただきたいと思います。これは世田谷代田駅に近い環七と北沢川緑道の交差するところに円乗院というお寺がありますが、その境内に立ち枯れているコウヤマキという樹種の木です。
円乗院のコウヤマキ
これがその画像なんですが、これは昭和二十年五月二十五日に、世田谷区を含む山の手一帯を襲った山の手空襲で一帯が焼け落ちた際、立ち枯れて残ったもので、戦後もお寺さんが手をかけて大切に守ってきたものだそうです。いわゆる昨今で言うところの戦争遺跡の一つということです。足元の植え込みには、戦争の痛ましさを忘れぬために保存しましたと書かれています。
毎年三月十日、東京大空襲、下町を襲った空襲の日に、区役所で黙祷を捧げて、区民にもその黙祷を呼びかけているという取り組み、大切なことだということは承知をしているんですが、我々世田谷区の区民が襲われたこの山の手空襲、五月二十五日は毎年素通りというのも私はどうかと思っているんです。やっぱり私たちがそれをどうやって残していくのかという自覚を持つべきだと思います。
また、こうした地域に残る資産、全く活用されておりません。目の前に北沢川緑道があるんですから、こういったこともしっかり活用していくことを考えていただきたいと思いますし、皆さん、アイデアがあるんじゃないかと思うので、区長からもご見解をお伺いしたいんですが、いかがでしょうか。
◎保坂 区長
今回初めて空襲で立ち枯れた木がいまだに立って、現代彫刻のようにも見えますけれども、そういう形で今あるということを改めて知りましたし、これが空襲で焼けた木なんだということを子どもたちにも知ってもらう。そういう意味では、世田谷公園にもいろいろな平和を記念する展示物なり、木がありますけれども、そういったことを紹介することも含めて、力を入れていきたいというふうに思います。子どもたちに伝えるべきことだと感じます。
◆上川あや
ありがとうございます。
世田谷区には、私が調べたところ、ほかにもいろいろございまして、例えば三軒茶屋には旧日本軍の木造兵舎が今も残っています。これは戦後、大陸から引き揚げた方を収容した兵営住宅としても使われたものだそうで、今も残っています。また、三宿にあるヤマト運輸の三宿営業所の建物、これも旧日本軍の馬のまぐさを入れていた倉庫ということで、軍用倉庫だったんだそうです。こういったことも念頭に入れて、積極的に取り組んでいただきたいと思います。