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岩波新書『変えてゆく勇気〜「性同一性障害」の私から』

メディカ出版『性同一性障害の医療と法』

緑風出版『性同一性障害と戸籍 「性別変更と特例法を考える」』

手記『自然に電車に乗れるまで』

 上川あや(かみかわ あや)のプロフィール
  • 世田谷区議会議員。
    一貫して無所属。
  • 文教委員会委員。
    公共交通機関対策等特別委員会委員。
  • 2003年4月、日本で初めて性同一性障害を公表の上,世田谷区議会議員選挙に立候補し当選。
  • 2007年4月、再選。
  • 2011年4月、再選。
  • 2015年4月、再選。
  • 現在4期目。
  • 2012年6月、在日アメリカ大使館により「国際勇気ある女性賞」(Woman of Courage Award) の日本代表に選ばれた。









  • 1968年東京生まれ。 法政大学経営学部卒業後、都内の公益法人に就職、広報部門スタッフとして5年間勤務。
  • 1998年、精神科医より「性同一性障害」であるとの診断を受ける。
  • 同年6月、世田谷区へ転居。以来、区内に在住。
  • 2000年1月より2003年5月までTNJ(※)運営メンバーを務め、性同一性障害を持つ人向けの勉強会や交流会,一般向けのシンポジウム開催など,性同一性障害を持つ人々の自助・支援活動に携わる。
  • 2003年4月,性同一性障害であることを公表の上,世田谷区議会議員選挙に立候補し当選。
  • 2003年5月より世田谷区議会議員。
  • 2005年4月、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」に基づき、性別の変更が認められた。

議員になる前の数年間は、女性として複数の企業に勤務し、学習書籍や公共事業に関わる専門誌の編集に関わってきました。 しかし当時は公的書類の性別を訂正する制度がなかったために、正規の採用を受けることを断念してきました。

2003年7月10日、私たち当事者とその支援者による精力的な活動が実り「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」が成立。
2004年7月16日から施行され、一定の要件を満たした人に対して戸籍の性別を変更する道が開かれました。 上川あやも戸籍の性別を変えた当事者のひとりです。

現在では性の問題に限らず、多様な社会的少数者の環境改善に関心を寄せ活動しています。

TNJ (Trans-Net Japan:TSとTGを支える人々の会)
 1996年より活動を続けている、性同一性障害を持つ人々の自助・支援グループ。 当事者向けの勉強会や交流会、一般向けのシンポジウム開催や資料集の発行などを行なっています。

 岩波新書『変えてゆく勇気〜「性同一性障害」の私から』

2007年2月20日、岩波書店から拙著『変えてゆく勇気 〜「性同一性障害」の私から』を上梓いたしました。

当選以来、自著の出版について多くのお誘いをいただいておりましたが、このたびご縁をいただいて岩波書店から刊行の運びとなりました。
多くの方に手にしていただきやすい、廉価でコンパクト、末永く書店に置いていただける岩波書店の新書版です。

性的マイノリティーを公言した私が日本で初めて公選されるまでの日々、性同一性障害特例法成立の舞台裏、市民が飛び込んで眺めた議会制民主主義の現実、誰もが暮らしやすい寛容な社会をどう創っていくべきか――エピソードと実践報告、提案が盛りだくさんの内容です。

あなたのご感想をぜひお寄せください!


●私からのメッセージ

本当に困っている人こそ、声を上げることが難しい。

それが「性同一性障害」を抱えて生きてきた私の実感です。
27歳まで「男性」として暮らし、30代に入り「女性」として生きるようになりました。
男性の身体を持って生まれましたが、幼い頃から自分を男と思えませんでした。
自分らしく振舞えば「男らしくない」と非難され、好きになるのはいつも男性。
そんな自分が自分でも理解できず、誰にも相談できずに自分の心を偽って生きていました。

世間は典型的であることを是とする空気に満ちていて、世間の「フツウ」から外れることが恐ろしかったのです。
そんな私が、どのように「自分」を取り戻し、地方選挙に立候補するに至ったのか。
この本では、まずそんな私の体験をつづっています。

また、顔を出して活動するようになってから、性的少数者に限らず、社会にはさまざまな立場の少数者がいて、かつての私と同じように声も出せずに暮らしていることを知りました。

とことん困って苦しんで、模索を繰り返した今、私が感じるのは、この社会では「声を上げないといないことにされてしまう」現実です。
黙ったままでは状況は変わりません。

本の後半では、埋もれがちなニーズを掘り起こすことで生まれる実際の変化と、効果的に声を上げ、社会を変えてゆくヒントについても触れています。一歩を踏み出すことはたしかに勇気のいることです。

でも、声の上げ方を工夫することで、必ず応えてくれる人に出会えるというのも私の実感です。

「この社会も、まだまだ捨てたものではない」。

本書を読んで、少しでもそんな気持ちになっていただけたら、著者としてそれに優る喜びはありません。


 メディカ出版『性同一性障害の医療と法』


医療・看護・法律・教育・行政関係者が知っておきたい課題と対応 「性同一性障害の医療と法 」の新刊。

私は「行政による対応-世田谷区の取り組み」を担当して末席にお邪魔しています。

医療・看護・法律・教育・行政の各領域最先端の執筆陣により、現状と課題および対応について網羅しています。
ぜひお手にとってご覧ください。





 緑風出版『性同一性障害と戸籍〔増補改訂版〕「性別変更と特例法を考える」』


緑風出版のプロブレムQ&A 性同一性障害と戸籍「性別変更と特例法を考える」の増補改訂版です。

著者は、針間克己、大島俊之、野宮亜紀、虎井まさ衛、内島 豊、上川あやとなっていて私も4つQAを担当して末席にお邪魔しています。

2003年7月の特例法成立の背景、残された問題、実際的に必要となる手続き、性別変更で全てハードルは超えられるか…など関係者ならずとも興味深いQAが並びます。
増補改訂版では、特例法改正を踏まえ内容を刷新し、最新情報も加えられています。
ぜひお手にとってご覧ください。



 手記『自然に電車に乗れるまで』

2002年、出版社・高文研から 『多様な「性」がわかる本』 という本が出版されました。伊藤悟さん・虎井まさ衛さんの編著で、上川も自分の手記を掲載させてもらいました。 今回、高文研さんから特別にお許しいただき、その一部を抜粋・掲載いたします。 あなたのご感想をぜひお寄せください!

「家を出て一人でやっていきます」

1997年7月、父と二人きりのリビングで、私は泣きながらそんな言葉を口にした。性同一性障害の自助支援グループ「TNJ(TSとTGを支える人々の会)」が初めての公開シンポジウムを開催した翌日のことだ。

前年、埼玉医科大学は性同一性障害に対する治療法の一つとして、性別適合手術(SRS)を認める答申を出し、シンポジウムに先立つ5月には、日本精神神経学会が性同一性障害に対する治療のガイドラインを策定した。一連の動きを受けて、マスコミの性同一性障害への関心はかつてなく高まっていた。

シンポジウムの様子は、当夜のテレビニュースでも大きく取り上げられ、その映像は両親の囲む食卓にも届けられた。

母にはシンポジウムへの参加を伝えてあった。

会場の様子を伝える映像が流れるなか、母の口からはなかば衝動的に「あの子は今日ここに行ってるのよ」という言葉が出たそうだ。

とっさの話題を理解しかねる父を置き去りにして、ニュースは別の話題に移ってしまった。
母は自らの言葉でさらなる説明を余儀なくされた。

●10年間の沈黙を経て
私が初めて自分の性のあり方について語ったのは17歳の時のことだ。同級生との交際が哀しい結末に終わったことをきっかけに、男性にしか惹かれない心の葛藤を母に告白したのだ。

当時の私は、自分を同性愛者なのだろうと漠然と考えていた。「心の性」と「体の性」を分ける概念はなかった。男性として扱われることを不快に思ったり、男性としての身体を嫌悪しながらも、「男性」に生まれて男性に惹かれる以上、それは同性愛なのだろうと考えたのだ。

私の突然の告白に、母の第一声は意外なものだった。「なぜかしら?驚かないわ」と言うのだ。

中学1年の初恋以来、好きになる対象は決まって男性だった。そして自分にとって自然な振る舞いは「女っぽい」という理由で揶揄の対象とされた。自分の心の葛藤は誰にも相談できないことだと思った。自分が世間の異端になることが恐ろしく、いつの頃からか女性の好きなごく普通の男子を演じるようになった。

家族や親友にさえ心の内を打ち明けることのできない閉塞状況は、高校の卒業間際まで続いた。思春期を通じて「自分は皆に嘘をついている不誠実な人間だ」「誰も本当の自分を知る人などいない」といった罪悪感や孤独感に苛まれた。

「なぜ生まれてきたんだろう」「だれも悲しむ人がいないならこの世から消えてしまいたい」などと母に漏らしたこともある。それでも決して悩みの核心を語ることのない私に、母はずっと疑問を抱いていたという。

失恋をキッカケとした私の告白に触れたことで、母はそれまで感じてきたいくつもの疑問が氷解したようだった。

じっと私の言葉に耳を傾けた母は、「世の中にはそういう人もいるのね」「人に迷惑をかけなければ別に悪いこととは思わない」といった受容の言葉をかけてくれた。

この初めての告白から10年もの間、私が自分の性の在り方について、再び母に語ることはなかった。

悩みが解消されたわけではない。当時の私には自身の核心をあえて直視しないでいるようなところがあった。自分らしく生きることで予想される周囲との軋轢が恐ろしく、ごく普通の男性として社会のレールに乗るほかないという意識がその根底にあったのだと思う。

大学を出てごく普通のサラリーマンになった私は、男性として社会適応しようと必死になった。深夜に及ぶ勤務にたび重なる出張、お酒の席にも愛想よく付き合う日々――。

組織内での評価は高まった一方、就職して1年もすると、円形脱毛症や十二指腸潰瘍、全身の蕁麻疹、多汗症といった身体症状に悩まされるようになった。傍目には男性として順風満帆な日々を送りながらも、心の内では毎日が苦しく空しい。5年あまりのサラリーマン生活を続ける中で、私は自身の内面を偽り続けることに限界を感じるようになった。

なぜこれほど苦しいのか?自分の内面を見つめ直そうと最初に接触したのは、同性愛者のハイキングサークルだった。苦しみをわかち合える仲間を求めての参加だったが、そこで出会った参加者と自分とは違うと感じた。彼らの多くは男性として男性が好きなのであって自分にフィットする体を持っているように思えた。自分の体を嫌悪し、男性として扱われることに苦しむ私とは違っていたのだ。

自分探しは「ふりだし」に戻った。ふたたび歩くべき方向を探しあぐねていた時、ふと見たゲイ雑誌に、ある勉強会の告知を見つけた。男性であることが苦しい人……そんなフレーズがあったように記憶している。私が抱えてきた苦しみを言い当てられたような表現に、その勉強会に参加してみようと心に決めた。

ほどなく開かれたその勉強会には、自分の根幹について「そうだよね」と共感しあえる人たちとの出会いがあった。彼らと語り合い、自分の内面とを対比するなかで、私は私の内面が女性のそれに近いのだという事実に思い当たった。

自分が何者であるのか整理されてくるにしたがって、自分の内面を偽って生きていっても、心からの幸せは得られないのではないか?と思うようになった。男性として生きる努力はもう十分にしてきたと思った。それでも苦しくて仕方なかったのだ。

思い悩んだ末に私は、自分の性について母に10年ぶりの告白をした。自分の心は女性のそれにとても近いと思えること、自分の体に違和感を感じつづけてきたこと、男性として適応する努力を続けてきたけれど、毎日がとても苦しいこと……。

母は10年前の告白も覚えていた。母の態度は以前のそれと変わることはなかった。私の話に聞き入り、そして受容の言葉をかけてくれた。私は身近な理解者を得たことが嬉しく、その後も、ホルモン療法を始めること、仕事を辞めることなど、折々の不安や葛藤を母に打ち明けるようになった。

こうして私が溜飲を下げる一方で、深刻な悩みを打ち明けられた母は心の負担を強いられる結果となった。しかしそのことに気づいたのは、かなり後のことだった。

●父の受容
「あたしが真剣に考えていることを、きちんと話せるのが本当のパートナーだと思うから話したのよ」

シンポジウムから帰宅した夜、母は私の悩みについて父に話した理由をそんなふうに語った。

「女になりたいと言っているのか?」と問う父に、「男でいるのは違うって言っている」と母は答え、これまで私が語ってきた苦悩を父に伝えようとしてくれたらしい。

「本人が苦しいならしょうがないじゃないか、勝手にしてもらうしかない」

父はそう言って寝てしまったという。私はこれまで母に心労を強いてきたことに気づき、それまでのわがままを詫びた。私が誰にも相談できず一人で苦しんできたように、容易に解決策を見出しえない不安感や閉塞感を母にも押しつけてしまったのだと思った。

二人きりで語り続けた夜半過ぎ、翌日私が父と話し合うつもりであることを伝え、互いの寝室に向かおうとしたその時、背後の母に呼び止められた。

「明日もしお父さんが、あんたに出て行けと言ったら、あたしも家を出るから……」

突然の一言に驚く私に母は続けた。「あんたを庇おうと思って言うんじゃないのよ。そうやって苦しんでいるあんたに、もし出て行けと言うような人だったら、あたしとは価値観が違うから、もう一緒には暮らしていけない」。

私の周囲を見渡して、親、きょうだいの理解を得られず苦しんでいる当事者は少なくない。何年もの時間をかけて受容された友人もいる。すぐに理解を得ることはできなくても地道に努力をするつもりであることを必死で母に伝え、やっとのことで互いの床に就いた。

翌日の午後、家には父と私の二人きりだった。きちんと話そうと意を決した。泣きながら話すのは卑怯な気がして「絶対に泣かないで話をしよう」と思った。

リビングで新聞を読む父に「話があるんだけど……」と勇気を振り絞った瞬間、父が返してくれた「何だい?」の一言には受容の響きがあった。泣かないはずの決心は一気に崩れてしまった。結局、父と話をした二時間あまりの間、私の涙が止まることはなかった。

私の告白に対し、父が発した言葉は数えるほどだ。「はっきりいってショックだけど仕方がない。本人が苦しいのにどうこう強制することはできないのだから、自分のいいようにしてもらうしかない」「世間はこういったことに無理解だが、どうやって生きていくんだい?」。

明確なビジョンを示せるはずもない。家族を自分の問題に巻き込むことを避けるため、家を出るつもりであること、先々は女性として仕事に就けるよう努力するつもりであると伝えるのが、私にできる精いっぱいだった。

「親不孝でごめんなさい」と謝る私に「お前が悪いわけじゃないのかもしれないから謝らなくてもいい」と父は言葉を返した。

両親からはひとまずの受容を得ることができた。家庭の崩壊という最悪の事態を避けられた安堵もあった。とはいえ、これからどう道を拓いてゆけばいいというのだろう?素に戻れば五里霧中の自分がいた。未来はただ茫漠として、明るい兆しなど何一つなかったのだ。

●引きこもりからの脱出
シンポジウムの前年、5年勤めた職場を辞めた。

退職の直接の引き金となったのは、目前に迫った健康診断だった。最初の勉強会からほどなくして、私はホルモン療法を始めていた。徐々に女性化してゆく体。嫌悪でしかなかった「男性化のネジ」を逆に巻き戻していくような気分。うれしい反面、家族にさえその変化を気づかれまいと猫背になって過ごした。

あれだけ悩まされた体調不良は、退職すると嘘のように快方にむかった。「もう男を演じなくていい」と安堵したのはつかの間のこと。時間をもてあまし、社会に根をもたない自分が急に頼りなく思えてくる。

性を移行しながら働くことは難しく思えた。無職でのアパート探しも容易なことではない。当時は埼玉医大での動きも表面化していなかった。この問題に精通する専門家は皆無に近く、性の移行に歩みはじめたものの、どう進むべきか思案に暮れるほかなかった。

私はその打開策に、シンガポールへの留学を決めた。東南アジアフリークだった私には、専門医が存在し、生活費の安い彼の地が性の移行を進める好適地に映った。

辞書と英字紙を手に住まい探しから始め、語学学校に入って学生ビザを取得した。日本から手紙を書いておいた大学病院でホルモン療法を始めたものの、当然ながら変容は容易でない。現地の状況がわかるにつれて、現地の狭いコミュニティに辟易し、滞在先を変更しようと翌年帰国した。

次いで目指したのはサンフランシスコだ。下見に出かけて驚いたのは、サポートグループの充実ぶりだ。10日ほどの短い滞在にもかかわらず、3日と空けず自助グループの会合が開かれる。親しくなったMTFからは、留学した場合のステイ先まで紹介された。順調な滑り出しに思われたが、彼女の一言は甘い幻想を打ち砕くのに十分だった。「あなたがきれいに変われるのなら大丈夫。暮らしていけるわ。でも気をつけて。変わっていく過程は危険よ。殺される危険さえあるのよ……」。

時を同じくして日本では、埼玉医大の倫理委員会が条件つきながら、SRSを認める答申を出し、流れが大きく変わりはじめていた。こうした動きに呼応して自助グループであるTNJの活動も始動していた。

結局、私は実家に戻り、「嘲笑されても殺されない」日本での暮らしを選んだ。

当時の私は髪を伸ばし、漫然とホルモンを摂取しただけの姿。自宅にいる以上、これ以上女性らしくなることは憚られた。中性的な外見、無職であることも手伝ってバツが悪く、外出する気にもなれない。家にこもったところで、家庭内でさえ肩身が狭く、自室から出るのにさえ気を遣う始末。そして知らず知らずのうちに引きこもり傾向を強めていった。そんな状態に自分でも嫌気がさした。そして一人、閉塞感の元凶を見つめ始めた。

勇気と収入の道の欠如から消極的な理由で実家に戻ったこと。近所の目を気にして、中性的な外見に自ら留まっていること。似合わない化粧や服装は自分でも見たくないからとトライアルさえしないこと。そんな自分に自信がもてるはずもなく、傷つくのを恐れて就業はもちろん社会との接点をなるべく避けていること……思いあたるフシはいくつもあった。

とりあえずできることは何か?と考え、最初に始めたのは「永久脱毛」だった。エステの針脱毛に通い始めたものの、その苦痛は想像以上だった。ヒゲはピンセットでつまめる長さに伸ばす必要があり、施術中は叫び出したいほどの痛みを伴った。さらにこの種の治療には多額の費用と長期的な施術が必要とされた――。

なかなか現れないその効果に苛立ち始めた頃、新聞から「レーザー脱毛」の文字が目に飛び込んでくる。当時、最初に導入した医療機関全てに足を運び、カウンセリングを受けた。結局、数カ月の期間と数万円であっけなくヒゲはなくなった。本来の自分らしくなったような気がして安心した。至近距離で人と接することにさえ苦痛を感じてきたこれまでが嘘のようだった。

何が必要なのかを考え実際に歩みだすこと。そして変わっていく自分――。振り返って、この小さなトライアルの成功が、引きこもりという迷路から抜け出す大切なヒントを与えてくれたように感じている。

●女性姿での一人暮らしと求職活動
性的指向が男性に向いている私にとって、男性の存在は「キレイになりたい」と思わせる強い力を秘めている。自分を惹きつける人の存在は、私に性の移行を加速させる重要なファクターでもあった。

初めてきちんと化粧をし、女性の服装をしたのは、男性との初デートを控えた前日のこと。理解ある女友達にSOSを発し、化粧のノウハウと服の貸し出しを得ることができた。それまで似合わない自分を見るのが嫌で避けてきたことが、やさしい彼女たちに誉められ、「結構いける」と初めて思った。調子にノって外出したが、すれ違う人に気づく様子もない。永久脱毛とホルモン療法、長く伸びた髪で女性に近い素地ができあがっていたのだろう。化粧と服装で女性らしさを補強したことでそれまでの「中性的外見」は一変した。

この初めてのデートをきっかけに、女性姿で過ごす時間は徐々に増していった。しかし実家にいる以上、近所では「息子」を続けざるを得なかった。外見上の二重生活を解消し、性の移行を進めたいと考えた私は、一人で暮らすアパートを探し始めた。女性姿で訪ねた不動産屋では、戸籍上の性を伝えざるを得なかった。契約時に住民票を出す必要がある以上、カミングアウトは避けて通れないことに思えた。

不動産屋では自分が実家にいることで家族に迷惑をかける恐れがあること、自分が自分らしく暮らすために独立して居を構えることが必要なことを泣きながら訴えた。

同情した担当者からは所有者宅から離れた不動産屋の管理物件を紹介され入居が決まった。

女性姿での引っ越し。その日を境に女性としてフルタイムの生活に突入した。容姿は何も言わなければ女性として通用するところまで変わっていた。ただ一つの問題を除いては……。

たった一つの問題。それは喉仏の存在だ。それを根拠に悟られるのではないかとの不安が去ることはなかった。周囲に喉仏を切除した経験者はなく、不安はつきまとったが、女性として社会復帰するために手術は避けては通れないと思った。

4人の形成外科医のカウンセリングを受けて、半年以上悩んだ末に手術を受けた。コンプレックスの解消を目指して臨んだ手術だったが、術後しばらくの間、全く声を失い愕然とした。徐々に声は戻ってきたものの、以前より低くなった声が、新たなコンプレックスになった。この新たな悩みの脱却には、その後の長期経過による声の復調と、女性として生活することで自信が醸成されるのを待つほかなかった。

手術後半年を経て、痕が目立たなくなってきた時点で求職活動を始めた。

女性として就業できる自信があったわけではない。女性として受け入れられるためにできる努力は全てやった。あとはどれだけ通用するのか、勇気を出して試すほかないと思った。貯金を取り崩す形で性の移行を模索してきたが、数年を経て貯えも底をついてもいた。

しかし望みの性で暮らす当事者が、戸籍上の性別を明かさず正社員になることは非常に難しい。年金手帳などの公的書類には、外見と異なる性別表記がある。これらの提出を避ける必要から正社員となって社会保険に加入することを諦め、アルバイトや派遣社員といった不安定な職位に身を置く当事者も多い。夜の接客業に就くしかないと考える人たちもいる。カミングアウトして就労することも困難を伴う現状にあって、当事者の生活基盤はその多くがとても脆弱だ。

こうしたなか私は女性として人材派遣会社に登録し、そこで紹介された会社で働きはじめた。以来、女性として就業し、戸籍上の性は知られていない。それでも戸籍の性別に縛られる結果、正社員になることは難しく、納税義務を果たす一方で、労働者としての権利は全く得られていない。

近ごろ、通勤電車の中でふと不思議な感覚に陥ることがある。いつのころからか緊張せずに電車に乗っている自分がいることに気がつくのだ。

性の移行を始めてからは「あの人はどっち?」と言われている気がして、誰かの話し声や視線が絶えず気になり、電車に乗ることが恐かった。フルタイムの女性生活に入ってからさえも、喉仏がもとで看破され、今までの努力が、無に帰する気がして、絶えずうつむいて乗っていたはずだった。

性の移行に踏みだしてから数年を経て、いつしかその緊張感が薄れていることに気がつく。

窓の外、流れゆく景色を眺める。車内で読書に没頭する。

そんなごく普通のことを、当たり前にできるようになった自分を嬉しく思う。

過去を振り返って、何人ものキーパーソンとの出会いがあって今の私があることにあらためて気づかされる。彼、彼女らとの出会いにあらためて感謝したい。

(この文章の著作権は、上川あやと(株)高文研が保有しています。 無断転載・無断引用は禁止します。)

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